撒き散らせ 脳汁ドーパミン

tatsu0eoの日頃頭に浮かんだものの可視化の為のブログ

no.6 雑談

"雑談は、特にテーマを定めず、気楽に会話することを指し、コミュニケーションでもあまり重要ではない事柄をやり取りする様式のものである。"

(wikipediaより引用)

 

会話は嫌いじゃない。

むしろ人と話すのは好きな方だ。

人の様々な考え方に触れたいと思う。

 

間を埋めるための会話が苦手だ。

とりあえずの天気の話。

 

今日は寒いからかセンチな気分。

雑談力があればこの感じをどう表現するんだろうか。

 

 

 

no.5 結婚

"結婚(けっこん、英: marriage)とは、夫婦になること[1][2]。類似概念に婚姻(こんいん)があり、社会的に承認された夫と妻の結合[3]をいう。後述のように学術的には「結婚」はもっぱら配偶関係の締結を指し、「婚姻」は配偶関係の締結のほか配偶関係の状態をも含めて指している[4]"(wikipediaより引用)

 

去年の11月に初めて結婚式に参列した。

多幸感に溢れ微笑ましい儀式だった。

 


結婚というものについて、いつからか懐疑的になっていた。連日報道される芸能人のスキャンダルに、大学4年の時の両親の離婚、幼い日は漠然とあった結婚のイメージだが、年を重ねるごとに現実的な側面が見えてきて輪郭がハッキリとするとともに影ばかりが目につくようになってきた。

原始のニンゲン的本能からすれば種の繁栄が主目的であるから一夫一妻のシステムはそれに反するのでは、と大それたことさえ考えた。

ただこの頃はその負の考えも徐々に融解し、前向きに捉えるようになってきている。

このシステムは個々人の覚悟の表明なのか、と。そこに人間讃歌を感じる。一生をかけて一人を愛する、というのは美しい。ただ難しい。恐らく皆が自覚している。だからこそ不倫スキャンダルでの離婚を見るとやっぱりかと思うし、老夫婦を見ると微笑ましくなるし同時に尊敬するのだと思う。無自覚にも難しさは感じているはずだ。何も結婚は絶対的なものではなくて、過去の実績から幸福の最大化を目指すべく社会が出した帰結の一つだと思う。時代が変わればガラリと変わるかもしれない。簡単に想像できるものだと、男女比が著しく偏重すると、結婚はあるにせよ多夫多妻制になるはずだ。

覚悟の表明式的側面がある結婚を讃えるのは当然のことだが、ただ一方で離婚のイメージも変わっていけばなと思う。上記したとおり、人の心は移り変わりやすく一度契った結びもほころぶことはある。それを悲観的にだけ捉えるのはどうなのだろうか。離婚した個々人をを非難するだけでなく、結婚という制度自身にも目を向けるべきだ。離婚の大きな原因は結婚だ。強く言いたいのは、結婚も離婚も幸せを掴むために下した決断だということだ。おかげさまで両親共、いまではお互いパートナーを見つけ楽しそうに暮らしている。

最後に、結婚はいいものだとこの文章を書いてる今思う。

no.4 蟹

"カニ(蟹)は、十脚目短尾下目(たんびかもく、Brachyura、別名:カニ下目)に属する甲殻類の総称。タラバガニやヤシガニなどは十脚目異尾下目(ヤドカリ下目)に属するが、これらも漁業・流通等の産業上、「カニ」として扱うことがある[1][2]。また分類学において、本分類以外の水産節足動物で「カニ」の名を与えられているものも多い。" (Wikipediaより引用)

 

食べ物界にもヒエラルキーは存在してて、その中で蟹は不動の地位を築いてると思う。海老でも貝でもなく蟹が、水生生物の人気者の魚や、不動の人気を誇る和牛達と並んで、根強く上位層にいるという認識だ。

 

では何故。

トップに躍り出るには一意にその希少性が必要だ。大トロは一頭のマグロから少ししか取れない部位だからこそ、値段も高く、人も納得している。

では蟹ってそうなんだっけ。確かにあの大きさの蟹は貴重かもしれないけど、あの地位に躍り出るのはそれだけでは至難だと思う。

 

私は思うに、あの"食べづらさ"がポイントだと考える。殻をむいて身を取り出して、という煩雑な作業があるから美味しく思えるんだと。あの剝き身が海をふよふよ泳いでたら雑魚っぽいもん。

 

いらないって思うことも実は大切なポイントだったりするわけで。無駄なことは無駄で切り捨てる、でもそれってほんとにいらない?と一度問おう。

 

no.3 祖父

"祖父(そふ) - ある人からみて、父母いずれかの父親、2親等尊属の男性。→ 祖父母、おじいさん" (Wikipediaより引用)

 

祖父は偉大な男だった。

あなたの尊敬する人は、と聞かれたら祖父の名前を挙げるだろう。

 


昨日、時系列順に並んだiPhoneのカメラロールの写真をめくっていた時、遺品整理した際にスマホで撮った祖父の写真たちに目が止まった。今は奇しくも5年前に祖父が亡くなった1月だ。何かの契機かもしれない。

 


祖父は、戦前に十人兄弟の末っ子として生まれ、名前の"義樹"が体現するように曲がったことが嫌いで正義感が強い男に育った。戦後の復興まもない日本という環境や家庭の事情もあり、学の道に進みたかったが断念し、高校を卒業して工場に勤務する。ただ、働き始めてもその思いは抜けず、ある程度になって通信制がある東京の大学に入学、働きながら学を収める。その後、社会に奉仕したいとの思いから一念発起し50歳を越えて町の便利屋の会社を立ち上げる。"死ぬまで働く"という言葉があるが、祖父はまさしくその言葉通りで、生との別れを寒い朝にオフィスで独りで迎えた。

熱心な仏教徒で常にお寺への寄付をかかさず、また、それに限らず色々な団体に寄付をしていた。

 


周りには厳格な人だと聞いているが、孫の私には全くそれを感じさせず、"ただの陽気なおじいちゃん"であった。風呂上がりにはよく自身のでかい腹を叩きながら、ふんどし一丁であたりを歩いて家族を笑わせていた。

ただ常に社会を憂いていた。自分には何ができるか考えていた。

 


私は幸運に恵まれ我儘にも大学で勉強(今考えるとろくにしなかった)させてもらい、色々と知見は得たが、まだ祖父には全然敵わない。死してもなお大きな存在である。実直で頑固だったため、悪く言う人もいたようだが、私は私のフィルターでしか物を言えないので、そこは分からないが、年を経ても凄いバイタリティだ。そうでありたいと思う。自分が何ができるか常に問おうと思う。歳のせいにするのは甘えだ。

 


最後は、遺品にあった日誌と書き留めていた大事にしてたのだろう言葉。自分の死期を意識して書かれた日誌は、最後まで仕事のことで、責任感の強さを感じる。

 


ここまで書いて思ったがやっぱり筋が通っていてイカしてるわ。

 

 

no.2 タイムマシン

"タイムマシン(英語: Time Machine)とは、時間の流れを超えて未来や過去へ旅するための架空の機械である[1]。"(Wikipediaより引用)

 

一人暮らしをしている方々は分かってくれるだろうと期待しているが、冷凍庫をタイムマシンだと思ってる節がある。"いずれ過去になる今"を未来に運んでくれる箱だと。

 

食べ物に関しての箱が冷凍庫だとして、考えてみると他のものに関してもその箱は存在してる。今こうして書き綴っているブログもそうだ、その時の考え・感情の箱だ。よく昔のSNSが残っていて黒歴史になってたりする。おいmixi、中学生の時の私のアカウント消させてくれ、覚えてないからログインすらできないぞ。

"ネット上にぷかぷか漂う皆んなの黒歴史展"をしたい。それ見てみんなで笑いたい。

未来の人から見たら今もその対象で、今の当たり前ってけっこう笑えるものなのかもしれない。目の前の当たり前に違和感を覚えたら、その意義を疑おう。

no.1 ユートピア

"ユートピア(英: utopia, 英語発音: [juːˈtoʊpiə] ユートウピア)は、イギリスの思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作『ユートピア』に登場する架空の国家の名前。「理想郷」(和製漢語)、「無何有郷」(無何有之郷とも、『荘子』逍遙遊篇より)とも。現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことであった。"(Wikipediaから引用)

 

皆さんそれぞれが描くユートピアの形があるでしょう。今回はそんなお話。

 

私の思うユートピアは、お金の存在を感じさせない世界。ん?と思うだろうから一つ例を以下に述べるね。

 

先日スーパー銭湯に行ってきた。受付でバーコードのついたリストバンドを渡される。事後会計だから受付ではここまで。館内での金銭の授受はなくバーコードで購買の履歴がとられる。ご飯を食べてピッ、風呂上がり牛乳を飲むために自販機にピッ、マッサージを受けるためピッっと。そして最後に建物を出る時に履歴を参照し累積した金額をペイする。

 

これが物凄い楽で良い意味でも悪い意味でもお金を使っている感覚がないのだ。数字を強く意識することなく、だいたいこんなもんやろ、という感覚で管理する。それでいいと思うわけで。詳しく見たけりゃ履歴に事細かに書かれてるのを参照して。

上述のスーパー銭湯ユートピアはキャッシュアウトのログをとるのみだったが、これにインの機能も持たせると完全な循環型社会が完成する。もちろん労働に対する料金表も用意されており、見合った対価のログがとられる想定だ。

だいたいこんだけ働いたからこんだけ使おう、あれ足りない、もっと働かなきゃ、ん、なんか感覚と違うぞ、どれどれ詳細データを見よう、そんな感覚で生活をできたらなと。

 

と思うのは、ちょっと前からあまり現金が好きではなく。理想の購買の感覚と少し離れてしまい。一度あの金属をじゃらじゃらするとなんだかすり減ってる気持ちがして。使っている罪悪感というか、染み付いたDNAのせいなのか、あの金やら銀やらの金属や偉人が描かれた立派な紙を失うと少し心が痛い。なにも単なる等価交換だというのに。そうやって人々の消費活動をストップさせてるんじゃないかと勝手に懸念してるわけです。

あと現実的な話として、レジの待ち時間(小銭じゃらじゃら系によるものに限る)やATMの待ち時間って無駄じゃない?他に方法あるじゃん、と日常生活思ってて。お金は大事だけど時間ってすごい大事。

ここまで読んだ人の時間を無駄にしないような、何か心にくる文章を書ける人じゃなくてごめんなさいな。つまるところ、楽に生きようぜ、ってこと。

 

以上。

はじめに

どうも、tatsu0eoです。

なにに触発されたかブログ始めました。

飽きるまで続けてみようと思います。

いつも頭の中に浮かぶアイデアも、

時間が経つとすっ飛んでる、そんな情けない脳ですので、

備忘録として、その時感じたことや思いついたことをつらつらと綴っていければと思っています。

読みながらどうにかこうにかポイント見つけて面白がってくれたらと。

皆様の"クスッ"がこのブログの原動力です。

コメントお待ちしております。

お気軽にどうぞ。